4月14日士師記17-18章 マルコ8:14-26

『自分の目に正しいと思うことの、良し悪し』
【士師記17:1 エフライムの山地の出で、その名をミカという人がいた。17:2 彼は母に言った。「あなたが、銀千百枚を盗まれたとき、のろって言われたことが、私の耳に入りました。実は、私がその銀を持っています。私がそれを盗んだのです。」すると、母は言った。「【主】が私の息子を祝福されますように。」・・・
17:4 しかし彼は母にその銀を返した。そこで母は銀二百枚を取って、それを銀細工人に与えた。すると、彼はそれで彫像と鋳像を造った。それがミカの家にあった。17:5 このミカという人は神の宮を持っていた。それで彼はエポデとテラフィムを作り、その息子のひとりを任命して、自分の祭司としていた。17:6 そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。】①士師記の時代は、主に仕えるリーダーが長くおらず、一人一人が「自分が正しい」と思うことを行っていました。神様の基準を知っていながらも無視をして、「自分の都合の良いように」解釈し、行動することは、多くの場合「神の目には悪を行うこと」になるのです。自分の願いは押し通せても、その結果、混乱と不幸が生まれるのです。神様の基準を意識して行動しましょう。「神の国とその義を第一にして生きること」は祝福の基なのです。

『違った解釈の戒め』
【マルコ8:15 そのとき、イエスは彼らに命じて言われた。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい。」8:16 そこで弟子たちは、パンを持っていないということで、互いに議論し始めた。8:17 それに気づいてイエスは言われた。「なぜ、パンがないといって議論しているのですか。まだわからないのですか、悟らないのですか。心が堅く閉じているのですか。」】①パリサイ人のパン種とは、聖書の啓示のメッセージを、自分たち流に変えて伝えることです。これをすると、聖書の本質がゆがめられるのです。「キリストへの愛が冷え」、「キリストのみ言葉に平気で背く」ようになってしまうのです。聖書の文脈から外れた勝手な解釈を戒めましょう。それは信仰を破壊する教えなのです。そのような教えからは、距離を置かなければなりません。キリストの愛から離れることは、恐ろしいことなのです。

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