『罪や間違いを告白する祈り』7月25日詩編32-35章
【詩32:5 私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を【主】に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。セラ32:6 それゆえ、聖徒は、みな、あなたに祈ります。あなたにお会いできる間に。
32:8 わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。32:9 あなたがたは、悟りのない馬や騾馬のようであってはならない。それらは、くつわや手綱の馬具で押さえなければ、あなたに近づかない。32:10 悪者には心の痛みが多い。しかし、【主】に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む。32:11 正しい者たち。【主】にあって、喜び、楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。】①変わろうという心構えをもって、主の前で、罪や間違いを認めて祈る時、主は必ず憐みと赦しを与えて下さいます。ダビデはそのような祈りを主に捧げました。自分が間違っていることを主の前に認める時から、主の癒しと回復が始まるのです。
『主に喜ばれるように生きていく』 1コリント16
【16:7 私は、いま旅の途中に、あなたがたの顔を見たいと思っているのではありません。主がお許しになるなら、あなたがたのところにしばらく滞在したいと願っています。
16:12 兄弟アポロのことですが、兄弟たちといっしょにあなたがたのところへ行くように、私は強く彼に勧めました。しかし、彼は今、そちらへ行こうとは全然思っていません。しかし、機会があれば行くでしょう。16:13 目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。男らしく、強くありなさい。16:14 いっさいのことを愛をもって行いなさい。】①パウロは、主が許されるならと考えて行動していました。人の行動も、人間の意思だけではなく主の計画として考えていました。②目を覚まし、固く信仰に立ち、愛をもって行う・・・これらのことは、どんな時にあっても大切なことです。思い通りになる時も、ならない時も、私たちは「主の願いを第一に考えて」行動することが必要なのです。