『神様の計画ならば、道は開かれる』
【出6:8 わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地に、あなたがたを連れて行き、それをあなたがたの所有として与える。わたしは【主】である。」6:9 モーセはこのようにイスラエル人に話したが、彼らは落胆と激しい労役のためモーセに聞こうとはしなかった。6:10 【主】はモーセに告げて仰せられた。6:11 「エジプトの王パロのところへ行って、彼がイスラエル人をその国から去らせるように告げよ。」6:12 しかしモーセは【主】の前に訴えて言った。「ご覧ください。イスラエル人でさえ、私の言うことを聞こうとはしないのです。どうしてパロが私の言うことを聞くでしょう。私は口べたなのです。」】①モーセは、神の働きを伝える立場を主から与えられました。しかし民は失望のために、モーセの言葉を聞くことはできませんでした。またモーセ自身も、その状況を見て、導きことは不可能だと考え、神様にそのことを訴えたのです。②しかし現実は、神様の導きによって、モーセは民の「出エジプト」を成功させたのです。これは神様の計画であり、神様の熱心さによるものでした。私たちの目の前に、不可能だと思えることがあります。しかし神様の導きがあれば、道は開けるのです。大切なことは、祈りによって、葛藤しながらでも「神様と共に歩むこと」です。
『イエス様についていくとは』
【マタイ16:22 するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」16:23 しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」16:24 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」】①イエス様は、「わたしについてきたいと思うものは・・・」と言われ、弟子としての心構えを語りました。実はイエス様ご自身が「自分を捨て」「自分の十字架を背負って」主に従っていかれました。あなたにとって「自分を捨てる」とはどういうことですか。また「自分の十字架を負って」とはどういうことでしょうか。それを単純に、黙々と行う者が、イエス様についていくことができるのです。