『主の前に正しく生きる』
【詩101:2 私は、全き道に心を留めます。いつ、あなたは私のところに来てくださいますか。私は、正しい心で、自分の家の中を歩みます。101:3 私の目の前に卑しいことを置きません。私は曲がったわざを憎みます。それは私にまといつきません。101:4 曲がった心は私から離れて行きます。私は悪を知ろうともしません。101:5 陰で自分の隣人をそしる者を、私は滅ぼします。高ぶる目と誇る心の者に、私は耐えられません。101:6 私の目は、国の中の真実な人たちに注がれます。彼らが私とともに住むために。全き道を歩む者は、私に仕えます。】①あなたは神様の助けを受けたいなら、一番良い方法は、神様と共に歩むことです。神様の味方になることです。神様の喜ぶことを自分の喜びとすることです。・・・その為には、「心を聖めて」頂くことが不可欠です。(聖くなければ、神と親しく交わることができませんから)あなたが「心を聖めて」頂きたいなら、「求め」ましょう。そして正直に自分の本音を語りましょう。神様はあなたのすべてを見ておられます。ですから早く降参して、主の手の中に飛び込むのです。
『罪に死んだ私たちは、手足を義の器として捧げる』
【ロマ6:11 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。6:12 ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。6:13 また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。】①私たちは罪人です。しかし神と交わり神を愛する者は、罪の支配に身を任せることはしません。それは愚かなことであり、神様を悲しませることになるからです。「何かの働きのために」神様に用いて頂きましょう。まず求めることから始めましょう。「主の器」となる目標を持ったならば、「主の訓練」も「取り扱い」も、「喜び」となるのです。