11月4日エレミヤ7-8章 ヨハネ6:25-59

『エレミヤのとりなしの祈り』
【エレミヤ8:18 私の悲しみはいやされず、私の心は弱り果てている。8:19 聞け。遠くの地からの私の民の娘の叫び声を。「【主】はシオンにおられないのか。シオンの王は、その中におられないのか。」「なぜ、彼らは自分たちの刻んだ像により、外国のむなしいものによって、わたしの怒りを引き起こしたのか。」8:20 「刈り入れ時は過ぎ、夏も終わった。それなのに、私たちは救われない。」8:21 私の民の娘の傷のために、私も傷つき、私は憂え、恐怖が、私を捕らえた。8:22 乳香はギルアデにないのか。医者はそこにいないのか。それなのに、なぜ、私の民の娘の傷はいやされなかったのか。】①エレミヤは、神様との交わりと、民の不信仰の間に立って、引き裂かれそうになりました。神様に素直に近づくならば、苦しみを経験することはないのに、民は反逆し続けました。その結果の裁きを見て、心が痛んだのです。民のためにとりなし祈る者は、このような心を持ちます。しかし主はその「とりなしの祈り」を用いて下さるのです。

『イエス様は、いのちのパン』
【ヨハネ6:35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。6:36 しかし、あなたがたはわたしを見ながら信じようとしないと、わたしはあなたがたに言いました。6:37 父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。】①ここにイエス様の心が描かれています。イエス様は救い主であり、イエス様を信じさせすれば、罪が赦され永遠の命が与えられます。しかしイエス様を信じようとしない人たちがいるのも、事実なのです。イエス様は「わたしのもとに来なさい」と言われます。あなたはこの呼びかけに「どのように答え」ますか。・・・イエス様のところに行った者を、「わたしは見捨てない」と、主ははっきりと約束されているのです。

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