『主を求める心』詩編42-44篇
【詩42:1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。42:2 私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。42:3 私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。人が一日中「おまえの神はどこにいるのか」と私に言う間。42:4 私はあの事などを思い起こし、私の前で心を注ぎ出しています。私があの群れといっしょに行き巡り、喜びと感謝の声をあげて、祭りを祝う群集とともに神の家へとゆっくり歩いて行ったことなどを。42:5 わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。】①信仰者は、時に渇くように神を求めます。それは孤独や問題を通じて、求めるように導かれることが多いのです。感情で受け止められない時、信仰者は、自分で自分に「神を待ち望め」と語り掛けることがあるのです。そのような告白を通じて、試練の時を乗り越えることができるのです。主は、その祈りを聞き、助けて下さるお方だからです。
『土の器』2コリント3:7-4:18
【Ⅱコリント4:7 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。4:8 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。4:9 迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。4:10 いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。】①キリスト者は土の器です。時に弱さや恐れ、悲しみや不安を感じますが、神様からの宝を内側に持っているので、敗北することはないのです。外側の状況が耐えられなくなり、もう自分はダメだと思った時、私たちは「内側」に住んでおかれるお方に目を留めます。そこには、決して消えない「あなたの価値」があるのです。