1月24日出エジプト6-7章 マタイ16:13-17:13

『神様の計画ならば、道は開かれる』
【出6:8 わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地に、あなたがたを連れて行き、それをあなたがたの所有として与える。わたしは【主】である。」6:9 モーセはこのようにイスラエル人に話したが、彼らは落胆と激しい労役のためモーセに聞こうとはしなかった。6:10 【主】はモーセに告げて仰せられた。6:11 「エジプトの王パロのところへ行って、彼がイスラエル人をその国から去らせるように告げよ。」6:12 しかしモーセは【主】の前に訴えて言った。「ご覧ください。イスラエル人でさえ、私の言うことを聞こうとはしないのです。どうしてパロが私の言うことを聞くでしょう。私は口べたなのです。」】①モーセは、主から「エジプト脱出の使命」を与えられました。しかし民は失望のために、モーセの言葉を聞けず、反発をしたのです。モーセ自身も、その状況を見て「もうダメだ」と考え、神様に訴えたのです。②しかし現実は、神様の導きによって、「出エジプト」は成功しました。それは神様の熱心さによるものだったのです。私たちの目の前に、不可能だと思えることがあります。しかし神様の導きがあれば、道は開けるのです。大切なことは、祈りによって、葛藤しながらでも「神様と共に歩むこと」です。

『イエス様についていくとは』
【マタイ16:22 するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」16:23 しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」16:24 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」】①イエス様は、「わたしについてきたいと思うものは・・・」と言われ、弟子としての「心構え」を語りました。あなたにとって「自分を捨てる」とはどういうことですか。また「自分の十字架を負って」とはどういうことでしょうか。それに気がついたならば、それを黙々と単純に行うことです。それが「イエス様についていく」ことなのです。

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。
search previous next tag category expand menu location phone mail time cart zoom edit close